
ジーンズ姿の伝统舞踊
伝统的な生き方の维持に向けてアラスカ先住民が选択したこととは
北极圏のベーリング海に浮かぶセントローレンス岛の村人たちは、伝统的太鼓が刻むリズムが闻こえてくると村の集会所に駆けつけます。ジーンズに罢シャツという普段着のまま、彼らは太鼓のリズムと歌に合わせて踊り始めます。
この踊りは现地に住む先住民族ユピックの言叶で「アトゥック(补迟耻辩)」と呼ばれています。それは特别な机会に限られた踊りではなく、谁かが思い立った时に即兴的に始まります。セントローレンス岛では、踊りは日常生活の一部です。村人たちはアトゥック(补迟耻辩)とともに育ち、特段の指导もなしに踊りを习得します。
セントローレンス岛から1,000キロ以上离れた、アラスカ最北端の村ウトゥキアグビック(鲍迟辩颈补?惫颈办)の先住民族イヌピアットたちも伝统的太鼓のリズムと歌に合わせて踊りますが、両者の性质は全く异なります。彼らはダンスグループを形成し练习を积み重ねた上で、アラスカ先住民伝统に焦点を当てた祭などの特别な机会に伝统的衣装を身に缠い、息のあった踊りを舞台で披露します。
人类学が専门の生田博子准教授(九州大学留学生センター)は、2005年から2007年にかけて、海と共に生きるアラスカ先住民が暮らすセントローレンス岛とウトゥキアグビック(鲍迟辩颈补?惫颈办)にそれぞれ滞在しました。アラスカ先住民の生活の中でいかにして伝统舞踊が特别な位置を占めるに至ったかを探求すること、そしてなぜ二つの异なる民族の伝统をめぐる状况がこれほど异なっているのかを理解することが目的でした。
「伝统とは、常に现在の视点から过去を捉えたものだということは承知していました。しかし、何を伝统と捉えるかはその文化の担い手によって异なります。なぜ民族によって异なる文化要素を伝统として选択するのか、そして彼らにとって伝统とは一体何なのかを调査したいと考えました」

生田准教授は、アラスカでの约20年の暮らしを経て、先住民たちが踊りという伝统を通じて受け継いできた重要な価値は、他者との繋がりであると理解しました。
「踊りが互いへの思いやりや、长老の英知への敬意を表明する限り、セントローレンス岛のアトゥック(补迟耻辩)も、イヌピアットの『エスキモーダンス』も、伝统と呼ぶことができます。彼らにとって重要なのは、これらの伝统的価値が踊りを通じて実现されることです」

近着 の中で、生田准教授はこれらの経験を振り返っています。
「本研究の调査地は二カ所あります。一つはロシア本土からわずか65キロしか离れていない、全长约150キロのセントローレンス岛です。そこにはおよそ1,400人のユピックと称する先住民族が暮らしています。もう一つの调査地は、アメリカ大陆最北に位置するウトゥキアグビック(鲍迟辩颈补?惫颈办)です。人口约4,500人のこの村の半数はイヌピアットと称する先住民族です」

19世纪末のアメリカ捕鲸船に始まり、キリスト教宣教师、そして连邦政府や州政府など、アラスカ先住民は自给自足の生活を守るため、様々な外部のアクターと交渉してきました。プロテスタントの宣教师や西洋からの入植者たちは、先住民の踊りをキリスト教の教えに背く习俗と见なしました。そのため1890年代から1960年代にかけて、政府による同化政策のもとでは、先住民は秘密里に踊らざるを得なかったのでした。
「1968年に油田が発见されると、石油会社がアラスカにやってきました。ユピックとイヌピアットが资源开発に対して异なる道を歩み始めたのは、その顷です」と生田准教授は言います。
1971年に制定されたアラスカ先住民请求解决法(础狈颁厂础)は、アラスカ先住民にとって、彼らの生活を大きく変える政治的?経済的契机でした。土地の権利に関してユピックとイヌピアットが行った対照的な选択は、彼らの踊りの対照的な性质にも大きく影响しています。
1971年のANCSA以降、ウトゥキアグビック(Utqia?vik)のイヌピアットは、アラスカの他の先住民族と同様に貨幣経済と賃金労働を選択しました。一方で、セントローレンス島のユピックは、土地の代わりに現金を受け取ることや、当時アラスカ各地に形成された地域先住民会社 (regional corporation system)への参加を拒み、代わりに島全体の所有権を選択しました。
ウトゥキアグビック(鲍迟辩颈补?惫颈办)のイヌピアットは、アラスカの他の先住民族同様、土地の大部分を失いましたが、経済的には豊かになりました(现在、先住民族が所有する土地はアラスカ全体のたった14パーセントです)。しかし、その过程で、彼らの言语の大部分が失われました。
対してセントローレンス岛のユピックは、础狈颁厂础に参加しなかった结果、アラスカで最も财政的に贫しい村の一つになりました。しかし、岛全体は今日も彼らのものであり、ユピック语も彼らとともに継承され続けています。
「経済的な乖离が大きくなるにつれ、両者の踊りへの関わり方も変わっていきました。セントローレンス岛のユピックは、依然として普段着でアトゥック(补迟耻辩)に兴じている一方で、ウトゥキアグビック(鲍迟辩颈补?惫颈办)の踊りはより演出されたものになりました。ただ、そうした违いこそありますが、共通点もまた多いのです」と生田准教授は指摘します。
その例が、1977年に国际捕鲸委员会(滨奥颁)が捕鲸を禁止した际にも见られました。1970年初头に土地の所有に関して异なる决断をしたユピックとイヌピアットですが、滨奥颁の捕鲸禁止令に対しては、捕鲸の権利を诉え共に戦いました。彼らの、アルミボート、船外机、市民ラジオ、高性能ライフルといった现代的な狩猟装备を用いた捕鲸は「伝统的な捕鲸ではない」という滨奥颁の非难に対し、それらは自分たちが自给自足の生活を営む上で重要な伝统的手段であると主张しました。

「伝统的な捕鲸は、伝统的な道具を用いて行われるべきだと滨奥颁は主张しましたが、先住民にとっては、现代的道具を使用した捕鲸は、伝统的な価値を継承し、効率的に実践するための手段であるため、伝统的であることに矛盾していないと主张しました」と生田准教授は言います。
「道具が现代的であれ伝统的であれ、彼らにとっての『伝统』は『长老の英知への敬意』や『畏敬の念を持って鲸を扱う』といった『惯习的道徳』なのです。これらを効率よく遂行するために便利な道具を活用することは、彼らにとって矛盾ではないのです」
ユピックとイヌピアットは捕鲸の権利を守るために共に戦いました。また、捕鲸の権利をめぐるこの戦いの中で、彼らは自分たちがいかに「先住民」であり「エスキモー」であるかを外部に発信する手段としての伝统舞踊の可能性に気づきました。
生田准教授は、アラスカでの调査中、先住民が戦略的に意思决定を用いる场面を他にもたくさん目にしました。このことは、生田准教授の着书でも详しく述べられています。「彼らは、非常に有能な交渉人です」と生田准教授は言います。现在、生田准教授は环境人类学を専门とし、九州大学でアラスカ、気候変动、国际教育、多文化共生、日本の宗教に関する讲义を担当しています。
