个の时代が叫ばれつつ分断が広がる昨今、现场の人々と协働して个を超えた実践を育み、その过程に発达临床的研究を织り込む新たな方法『形成的フィールドワーク』を编み出した、発达心理学の挑戦者。おおらかな优しさとエネルギーに満ち溢れた存在である。
个の时代が叫ばれつつ分断が広がる昨今、现场の人々と协働して个を超えた実践を育み、その过程に発达临床的研究を织り込む新たな方法『形成的フィールドワーク』を编み出した、発达心理学の挑戦者。おおらかな优しさとエネルギーに満ち溢れた存在である。
鹿児島生まれ、沖縄育ち。多様な人々に育まれ、感受性の強い子どもとして成長する。小学生の時、友人から聞いた家庭での理不尽な体験が強烈に心に残り、それがのちに大きな影響を及ぼすこととなる。中学、高校時代、文理の枠を超えて関心が広がり、進路指導通りに得意分野で進路を決めるのは難しいと感じていた。「大学進学は当たり前」という前提から問い直してみることを経て、モノを対象とした領域よりも、人間にかかわることへの思いが強いことに気づいた。大好きな理系科目は学び納めと高3で物理II、化学II、数学III という超理系クラスを選ぶ一方で、教育学部に進学して心理学を専修した。大学4年次での米国留学では、「自分で考え、問うことを促す」ジャーナリズムのあり方に刺激を受けるとともに、文化的営みの重要性を実感し、人間についての学問的探究への関心が深まった。米国Clark Universityでの恩師との出会いが現在の研究の礎となり、博士号(Ph.D.)を取得。UC Santa Cruz、国立国語研究所、茨城大学を経て2009年より現職。現場実践に根差した独自の発達臨床的研究を推し進め、さまざまな養育現場で活動している。訳書に『文化的営みとしての発達』(著者:バーバラ?ロゴフ、新曜社/2004)がある。
异年齢グループでのお昼ごはんを终えて緑色のビブスを着た年长さんが自主的にお片づけを始めたところ。黄色が年中さん、オレンジ色が年少さん。
「育つことを支える営みのデザイン」と「建筑のデザイン」のコラボ。都市共生デザイン専攻でも教鞭をとる当眞先生。建筑の先生、学生、留学生との协働で、香椎浜の留学生寮の庭に『香椎浜みんなの家』という集いの场を创るプロジェクトにも携わった。「『建てる』ことは、人を『育む』可能性を秘めていることを実感した日々」だった。
学生への问いかけを通して、互いに语り合い、问题の本质を掘り下げながら学びを深めていく参加型の授业を大事にしている。先生からのレクチャーも、学生との対话の中に织り込んでいく。人见知りで最初は踌躇していた学生も、授业への参加体験を通して、考えを言叶にして伝えていく力をつけていくことが多いそう。时には新生児人形を抱かせることも。ほとんどの学生が未経験なのだとか。
私の専门は発达心理学で、人が人として育つことにまつわる诸々を问う学问の领域です。人が育つ、豊かに生きるとはどういうことか?これは一筋縄ではいかない问いです。私たちはこの世に生を受けてから死に至るまでの间、さまざまな人々と互いに関わりながら生きる営みを続けます。人类は、コミュニティを形成し“文化的営み”を纺ぎ出すことで、生きること=生存を可能にしてきました。しかし発达心理学では长い间、个人を単位として発达的変化をとらえるという観点が主流でした。私は人の発达は“文化的営み”と切り离せないものと考えています。ここでいう“文化的営み”とは、人が生きる中で“个”を超えて生み出してきた営みのすべてを含みます。それは必ずしもポジティブなものばかりではありません。戦争ですら文化的営みであると言い得るのです。
人は生まれ落ちる境遇や親を選べません。意図せず遭遇する出来事もあります。生身の人間がさまざまな社会的、文化的、歴史的現実の中に生まれ落ち、どうにか折り合いをつけながら生きていく。それがいかにして可能になっているのか、そこにはどのような喜びや哀しみ、困難や支えがあり得るのか、人が人として生きるということが豊かであるとはどういうことか、という “問い”に応えたい(敢えて「答える」ではなく)。それが私の研究の母胎となっています。
そこで編み出した実践?研究法が『形成的フィールドワーク』です。この試みの素描を提示したのは2004年(「問いに導かれて方法が生まれるとき:形成的フィールドワークという方法」 臨床心理学 第4巻6号)、本格的な展開はある保育所との出会いによって始動しました。一般的にフィールドワークでは対象を変えずに記述するのですが、『形成的フィールドワーク』では、研究者である私も現場の人々と共に、その文化的営みを問いつつ育むことに挑戦します。この保育所では年齢別に保育をしていましたが、『形成的フィールドワーク』を通して、0?6歳までの子どもたちが日々の生活や活動を共にする保育の営みを育んできました。その過程で、子ども同士、大人と子ども、大人同士の関係性が育ち、ひとりひとりが育っていくという嬉しい姿が見られています。そしてこの保育所の年長さんは、いまや多くの大学生よりも、小さな子や支援を必要とする子のニーズを察知してさりげなく適切に手を添えてあげるのが上手になっています。小さな子たちも、そんなお兄ちゃんやお姉ちゃんたちに憧れて頼りにしています。そして自分もそうなりたいとがんばるのです。食べることも遊ぶこともお片づけも、楽しそうに生き生きと、大人の指示がなくても自分たちで考えて動くようになっていく様子は、発達心理学者の私も驚くほどでした。
この実践形成型の研究は、保育现场に限らず、子育て支援の现场や、児童养护施设など社会的养护の现场でも活用しています。日々の営みやその仕组みを育むことで人を育み、人を育むことで仕组みも育まれる。従来の基础研究と応用研究という二分法的枠组みを超える『形成的フィールドワーク』を通して、「どうしたら人が育み合い豊かに生きていけるか」を、人の発达にまつわる大事な问いとして探求し続けたいと思っています。
『形成的フィールドワーク』は、実践という縦糸と研究という横糸で织りあげていく、织物のようなもの。実际にこの手法で実践形成的な発达研究を行う中で、子どもたちだけでなく、大人たちも、学び合い育まれていくプロセスに几度となく立ち会うことができました。问いながら実践を纺いでいく过程は、顺风ばかりではありません。予期せぬ壁や问题が出てくることも珍しくありません。その都度、それを大切な学びの机会と捉え、向き合って工夫を重ねる中で、人も営みも育まれていきます。それは、研究者である私自身も例外ではありません。学问的成果は最终的には本や论文という形になるのですが、それよりはるか前に、现场と共に実践を纺いでいく过程で、いのちがふくらみ、生き生きと跃动し出す姿に触れることができるのは、実践形成と研究が切り离されずに织り成されていくからこそ。喜びもまたひとしおです。人が育つことにとって重要な现象を、现场で直に体験できるのは、とても幸せなことだと思っています。
専门分野を究めるというのは素晴らしいことですが、自分が専门とする分野だけに闭じてしまうと世界の见え方が狭く偏ってしまい、重要な局面で判断を误ることになりがちです。研究で得られた知识が人を幸せにするか否かは、それがどのように使われるか(あるいは、敢えて使わないという判断ができるか)にかかっています。私たちは科学技术の进歩がこの地球(ほし)とそこに宿る命を支えるか破壊するかが问われている时代を生きています。モノの理(ことわり)についての知识の増大のスピードに、その使い手としての人间の心と知恵は追いついているか。それを问いながら、自らの専门分野を超えて出会い、広く深く问い学ぶ体験を重ねてください。大事な问いほどすぐには答えがでないもの。それでも大事な问いは、それに応えようとすることで、大事な出会いと学びを引き寄せてくれるものです。
高校生の时に购入、それからずっと一绪に世界中を旅してきた、今でも现役の旺文社の英和中辞典。中には引いた単语につけた黄色いマーカーがビッシリ。高校生の时の憧れはベッドに横たわり、辞书を使わず英语の本を読むことだったそう。
ハンディビデオは厂翱狈驰、デジタルカメラは颁础狈翱狈、パソコンは笔补苍补蝉辞苍颈肠、首に下げて使う滨颁レコーダーは翱尝驰惭笔鲍厂…とフィールドワーク必须のデジタル4点セットはメイド イン ジャパンが集结。滨颁レコーダー入れの赤いかわいらしいポーチが先生らしい。
长年アイデア书きに爱用。创业100年、“友を呼ぶホルン”がトレードマークの歴史ある画材メーカー?月光荘のものは軽くて使いやすく、丈夫!
“学问”は人が生きることを励ますことができる。
问うことが学びを导く。学ぶことが问いを豊かにする!
私は日本语の“学问”という言叶が好きです。学ぶことと问うことの両方が入っている。问うから学びたくなるし、学ぶことが问いを豊かにする。これをしっくりひとことで表现することのできる英単语は见当たりません。子どもたちとかかわっていると、人间は本来、问わずにはおれず、学ばずにはおれない存在なのだと感じさせられることが多いのですが、それは、本物の学问に触れたとき、人が深く励まされることと无関係ではないのかもしれません。
私が、モノローグ的に知识を伝授するのではなく、あえて学生たちに问いかけながら対话型の授业をするのにはいくつもの理由(わけ)がありますが、そのひとつに、自分が问い学ぶことが他の学生の学びの粮になり、他の受讲生たちがいてくれることで得难い学びが自分に生まれることを、受讲生ひとりひとりに実感してほしいという愿いがあります。
「自分なんて居ても居なくても大差ない」、「こんなことも知らないのかと思われないか」、「こんなこと言うとへんなやつだと思われないか」…いつの间にかそんな思いに囚われてしまっている人が少なくないようです。それでは学ぶことも生きることもしんどくなってしまいます。魅力的な仕事をしている人に出会うと、その谁もが、己の身の丈をよく知っていて、それを伸ばそうとしていることに気がつきます。そして、それをどこか愉しんでおられる。身の丈が高いか低いかを気にするよりも、今の身の丈をごまかさずに受け止めて、ちょっと背伸びしてやれることをやってみることが肝心。そうすると、そのうちに身の丈は伸びていくもの。その姿は自分も他人も励まします。そしてそこには、本物の喜びが生まれます。大学が、学问を通して人を育み、励ます场であることを愿っています。
「たとえ明日世界が灭びようとも、今日私はリンゴの木を植える。」
マルティン?ルターが残したこの言叶との対话は、いろんな気づきへと导いてくれます。先行きが不透明なことへの不安に烦わされて落ち着かないとき、心を「いま?ここ」に戻して今日を生きることへと导いてくれる言叶でもありますね。何年もの时を経て、何人もの人々の间で语り継がれてきたおかげで、私もこうして出合うことができた。ありがたいことだと思います。
取材日(2018.11)