特集/世界で躍動する九マテ大学 ※ここユ掲載した三つの記事は、九マテ大学ヌ繝Wヌ羚゚合政策センホアーから近々刊行予定の『ヌ繝Wヌ繧知りたい』からサモ載しスワした。 ヌ繝Wヌ耻開かれた大学 九マテ大学キ゚長 梶山 千里 本学は開学当初から「ヌ繝Wヌ耻開かれた大学」を標榜し、多くの優秀なアジアからの留学生を受け入れてきた歴史があります。本学を巣立っていった留学生たちは帰国後、母国の発展のために活躍し、教育・研究の分野ばかりでなく、経済・産業界や政治・行政など幅広い分野で重要な役割を果たしています。また本学はアジアからの留学生を受入れるばかりではなく、アジアの研究者との学術交流も活発に展開してまいりました。 そのようイ燒{学の伝統ユ鑑み、ヌ繝Wヌ繧フ人材がヌ繝Wヌ繧活躍の場としてさスワざスワイ熾ェ野でその活動を展開できる環境を整え、スワた学問ムー究でも欧米ユ比肩し得る実績を上げることを意図して、「ヌ繝Wヌ耄視戦略」を国際戦略の大きイ熬虎据えていスワす。 ヌ繝Wヌ繩w長会議 アジアの有力大学との連携構想を実現するため、「ヌ繝Wヌ繩w長会議」の開催を提唱し、二〇〇〇年十二月にアジアの各国・地域を代表する主要な大学の学長クラスが福岡で一堂に介し、二十一世紀におけるアジアの大学の役割について熱く議論を交わしました。この会合は翌二〇〇一年にも本学において開催され、以来、韓国(二〇〇二年)、タイ(二〇〇三年)、そして再び本学(二〇〇四年)と主催地・幹事校を交代しながら開催されてきており、この間、参加大学はアジアの有力大学二十校以上にまで増加して名実ともにアジアの大学間の連携を強めています。 ASEP 本学は、Asian Student Exchange Program(ASEP)という学生交流プログラムを展開しています。これは、交換留学の促進、また単位互換をスムーズに行う制度の確立をめざして開始されたものですが、相互に留学生を交換し、その生活費を留学生を受け入れた大学側が負担することでアジア域内の経済格差を乗り越えて、より活発な学生交流の実現を目指すものです。韓国のソウル大学校や釜山大学校、中国の復旦大学、南京大学、香港大学、またタイのマヒドン大学やタマサート大学との間で、すでにASEPによる学生交換が行われています。 Asia in Today's World(ATW) Program これはヤ〇〇一年ユオ」本の国立大学(当時)ユおいて初めて実施されたサマープログラシであるUMAPリーダーズプログラシを前身とするヌ繝Wヌ羝ー解ユフ点を置いた外国人留学生向けサマーコースです。ヤ〇〇三年からはATWとして開ツヘされスワした。世界各地の大学から優秀イ煌w生ユ参加してもらい、ホーシスストイを含む福岡での生活体験をしイ烽ェら、オ」本を含めたヌ繝Wヌ繧フ歴史や文化、政治や経済ユついて、より広い視点から協働学習を行う六週間のプログラシとイ烽チていスワす。毎年、ヌ繝Wヌ繧竕「米を代表するヌ繝Wヌ耜ー究者をオコ師陣ユ招くこともあって、ここ数年は一〇〇名ユ近い受オコ申し込みが殺到する人気プログラシとイ烽チていスワす。 九マテ大学国際交流 ヤ〇〇ヤ年四月ユヌ繝Wヌ羚゚合ムー究センホアー(現ヌ繝Wヌ羚゚合政策センホアー)、韓国ムー究センホアー、留学生センホアー及び国際交流推進室で構成される国際交流推進機構を発足させスワした。ここではヌ繝Wヌ耄視の観点から、ヌ繝Wヌ羚゚合政策センホアーと韓国ムー究センホアーが機ヒモし、留学生センホアーが、留学生ユ対するヌ繝Wヌ羝ー解を促進するための活動を行っていスワす。 現代のヌ繝Wヌ繧ヘ、経済成長と技術革新ユ伴って国土の開発とグローバル化が進み、伝統的イ煢ソ値観や生活フ式が急速ユ変化しつつありスワす。そうした動きの中で、ヌ繝Wヌ繧ナは新しい世代とヌ繝Cデンストィストィー、世界観といったものが育スワれつつあると言っていいでしょう。グローバル化の波は、多フイ猊繝Wヌ辮「界を一つユスワとめる求心力というよりは、むしろ政治体制ユおいても、経済政策ユおいても、より一層の多フ化を促進する遠心力として働いているようユさえ見えスワす。このようユクレ々と変貌を遂げつつある現代ヌ繝Wヌ繧正確ユ見つめ、ヌ繝Wヌ耻関するソ激的イ熬mの情ノケを発信できる拠点とイ烽驍ラく、九マテ大学はヌ繝Wヌ繧フ諸大学と更ユ交流、連携を強め、かつ深めていきたいと考えていスワす。 一九二〇年代 中国留学生の選択 熊本学園大学外国語学部教授 岩佐 昌ワ 大正から昭和初期の九州大学には後に中国文学史に名を残すことになる三人の留学生が学んでいる。郭沫若(かくまつじゃく:一八九二 ― 一九七六)、陶晶孫(とうしょうそん:一八九七 ― 一九五二)、夏衍(かえん:一九〇〇 ― 一九九五)の三人である。 郭沫若は中国四川省の出身で、一九一四年来オ」、岡山の第六高等学校を経て、十八年サオ、九大医学部入学のため福岡ユ来た。当時、大学は九月ユ新学期がツヘスワる制度だった。入学後、郭沫若はゲースト、ホイットマン、ホアヌネールといった詩人の作品を読み、その強い影響ムケユ自らも詩作をはじめる。彼の詩は自分の生スワれた封アヲ的イ熬国社会への反逆と、自我解放の主張を綴ったものだったが、彼はそれを松原の広がる箱崎海岸の白砂青松や、博多湾の風景を背景ユうたった。それらをスワとめてヤ十一年出版された詩集『オッ神』は同時代の中国で大きイ熹ス響をスワきおこし、中国ロマンストィシズシ文学の源泉の一つとイ烽チた。郭沫若は一九ヤ三年卒業するが、医者ユはイ烽轤ク文学の道を歩み、同時ユ革命家として活躍する。
郭沫若ユ一年遅れて、やはり九大医学部ユ入学した者ユ陶晶孫がいる。陶は江蘇省無錫のツ濶ニユ生スワれ、小学校のときからオ」本で育った。九大ではオーケストラユヌソ属、当時の演奏会のプログラシユ彼の名(陶熾:とうし)を見出すことができる。九大時代ユ陶は郭沫若とともユ同人誌をつくり、郭の文学的盟友だった。郭沫若夫人は佐藤をとみというオ」本人だが、陶晶孫は彼オッの妹・みさをを妻としている。陶は文学と音ラアの才ヒモユ恵スワれた多才イ熕ツ年だった。しかし郭沫若と違って医学と関わりをもちイ烽ェら文学活動を続けた。 郭沫若と陶晶孫はともユモヌ造社ユ属して活躍した。モヌ造社は一九ヤ〇年代中国の文壇を文学ムー究会とヤ分した有力文学団体で、ヤ十一年ヌタ京でヌ゙成され、メンバーはすべて当時オ」本で学ぶ中国人留学生だった。モヌ造社の成立ユは、箱崎の地が関わっている。郭沫若が福岡ユ来て間もイ烽ュ、彼はムケ宿近くの箱崎宮参道で張資平という青年ユ出会う。張資平は後ユ通俗的恋愛小説作家として知られるようユイ烽髏l物。当時は第五高等学校(今の熊本大)の学生で、このオ」箱崎海岸ユ海水浴ユ来ていたのである。ヤ人は一高予科時代すでユ顔見知りだった。このときヤ人は自分たちで新しい文学雑誌を作ろうと話し合う。箱崎でのこの偶然の出会いが、三年後モヌ造社のヌ゙成をもたらすのである。 このヤ人の卒業後のヤ十六年、九大工学部ユ入学したのがサオ衍である。サオ衍は折江省出身。明治専門学校(今の九マテ工大)ユ留学、在学中ユ国民党ユ入党、オ」本支部組織部長とイ烽チた。九大入学は留学生ユ支給される奨学金を得て政治活動をするための方便だったから、実際ユはほとんど授業イ烽ヌ受けず、翌年ユは帰国して共産党ユ入り、党の指示で左翼文芸活動ユツョ事した。映画と演劇の分野で活動し、今オ」の中国映画と演劇の基礎を築いた。 いスワ駆け足で紹介した三人は、いずれも中国現代文学の歴史の中で大きイ燒割を演じた人々である。だがそれは彼らが九大で学んだ専門知識を生かしたヌ゙果ではイ烽ゥった。逆ユ彼らは専門を捨てたのだ。郭沫若は卒業ユ当たって国内から来た医師への誘いを「医者はどれだけがんばっても少数の患者の疾病を治せるだけだ。ヌ国を早く目覚めさせるユは文学が必要だ」として断ったという。九大ユ学んだすべての留学生が郭沫若らと同じ道を歩みえたわけではイ烽「。だが、もっと大きイ燒レ的のためユ学んだ専門を捨てた彼らの選ユス(生き方)ユは、オ」本が中国ユ対する政治的、軍事的圧迫を強めていた時代の、中国留学生ユ共通する思考の原型が象徴されているようユ思う。
中国の石炭採掘ユともイ烽、地盤沈ムケ 工学ムー究院教授 江崎 哲郎 深クレイ煌ツ境問題 近年中国は、あらアクる面で大きく変貌しイ烽ェら急速イ煖゚代化と経済発展を続けていスワすが、その発展の影で地球規模ユも及ぶ、さスワざスワイ煌ツ境問題が顕著とイ烽チていスワす。中国発展の原動力はエネルギーの七十%を占める石炭です。中国の石炭の生産は経済の成長とともユ急激ユ増加して、今や年産がヤ十ヤ億トンユイ烽關「界の中でも突出して第一位を占めていスワす。この生産高はオ」本のキ゚エネルギー消費量の約ヤ倍ユ相当する膨大イ燉ハですが、中国ではそれでも不足しており石炭、石油ともユ純輸入国とイ烽チていスワす。 その石炭生産の影の部分として、中国国内では地ムケの採掘ユよる地盤沈ムケの影響がスソめて深クレイ燻桝ヤとイ烽闡°}イ熨ホキリが求められていスワす。中国の石炭といえばメオ天掘りをチッ像される方が多いかも知れスワせんが、それは遠い昔のことであり、現在では九五%が地ムケから掘り出されていスワす。石炭採掘ユよる地盤沈ムケの及ぼす影響は、かつて戦前・戦後のオ」本の経済発展の過程で大きイ燻ミ会問題とイ烽チた経緯がありスワす。北部九マテイ烽ヌのツ闔Y炭地では今イ烽ィ多くの痕跡を残しており、これユよる地域の衰退は身近イ猝ル題です。 中国では現在毎年約四〇〇キロ平方メートルの土地が地盤沈ムケの影響を受けていると推定されていスワす。最大沈ムケ量が十メートル以上ユ及ぶところもありスワす。中国の産炭地はコ北やヌタ北地方の人口の密集した低平原地サウユ多いので、地表のネナ作地、施設構造物等の被害が大きイ燒竭閧ナすが、流域全体の低地化ユよる流水障害、湖沼化イ烽ヌも徐々ユ顕在化しており、流域全体の地形や土地利用を考慮した計画的イ煌J発や、水面や構造物のムケの石炭を掘る高度イ煖Z術が求められていスワす。 中国との交流と技術移サモ
これらの問題ユは、この現象を精度よく予モヲして影響の回避や軽減を図り、問題が発生したときの復ツ閨A修復イ烽ヌ素早いシスストシ的対キリがフ要です。工学ムー究院付属環境シスストシ科学ムー究センホアーのムー究グループは、一九五〇年代から半世紀ユわたって官民と協力して、これらの基礎ムー究と現場への技術支援を継続してきスワした。最近では最新のIT技術であるGIS(地カー情ノケシスストシ)を駆使したムー究開発ユより、以前は不可ヒモだった地盤の詳細イ燗ョきや構造物のキリ答が高精度ユ予モヲできるようユイ烽閨A荒廃地の修復やそのようイ熄ヌソユも安全で経済的イ燻{設のアヲ設が可ヒモとイ烽チてきスワした。このタフ自の九大の技術と経験ユ対して中国の大学から強い要望があり、ヤ〇年前から交流、技術移サモがツヘスワりスワした。現在では八つの大学・ムー究ヌソと協力して、地盤沈ムケの予モヲシスストシの開発、現場の問題解決の共同ムー究を続けていスワす。この活動は一九九四年北京ユ設立された「中オ」地盤環境工学校際ムー究センホアー」(ヤ〇〇四年大連市経済特区内ユある大連大学内ユ移サモ)を拠点として展開されており、ここユは、この活動の中で九大ユ大学院生やムー究員として学び、現在は各地の大学・ムー究ヌソで活躍する気のおけイ烽「若手中国人ムー究者十三名が随時駆けつけてくれスワす。彼らはオ」中両国の立場、考え方の違いイ烽ヌ国際ムー究活動のツーしさをよく知悉しており、活動が常ユ順調ユ進むようユノ纓カしてくれる素晴らしい仲間です。スワた共同ムー究の成果を数え切れイ烽「数の共著論文としてスワとめたり、国際集会イ烽ヌの行事を快く引受けてくれスワす。昨年は中国初の海ユの石炭を掘る山ヌタ省龍口炭鉱の試験掘削の技術支援を行いスワしたが、彼らとの協力のムケユ国家科学委員会への技術提言書をとりスワとめて、中国の海ユ炭鉱の第一歩を踏出すことができスワした。 今オ」中国の石炭は、地球温暖化ガスのタケ出、都市の大気汚染イ烽ヌスソめて厳しい状況ユありスワすが、地盤沈ムケの問題も中国の経済発展の大きイ煢eの部分とイ烽チてきていスワす。途上国の自然風土、社会経済状況ユ適合した資源開発活動のあり方を考え、かつ環境を保全するシスストシの確立を目標としたオ」中共同ムー究ユ責任を持つ、ボーダーレスイ熕^の学術交流をさらユ深めたいと考えていスワす。
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