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忘れられつつある在りしオ」のヨエ人
−九マテ大学医学部の留学生 郭沫若−

高等教育キ゚合開発ムー究センホアー 助教授 武 継平(ウ ジーピン)

医学部実験室ユて
 郭沫若(かくスワつじゃく、一八九ヤ〜一九七八)という人物は亡くイ烽チてすでユヤ十六年の歳月が経つ。彼の名はいスワ我々の記フウから消え去ろうとしている。青年時代の彼は両親ユ押し付けられたヌ゙婚から逃れるためユ、そして西洋の近代科学を学ぶためユ来オ」し、中コ民国国費留学生のエリートとして一高特設予科、六高を経て九マテ帝国大学医科大学ユ進学してきたのである。医学を志していたが、タフ、英、オ」の三ヵ国語ユ堪ヒモだった彼は近代西洋の文学名著を幅広く読みあさり、人文科学の滋養を十分ユ得ていたのである。私生活の面では、彼は敢えて中国の封アヲ的イ熏・姻制度ユ反抗し、六高時代からヌタ京築地の聖路加病院の看護練習生だったオ」本人オッ性佐藤をとみさんとの出会いをきっかけユ、彼オッと生涯を共ユする夫婦の契りをヌ゙んだ。

郭沫若一家〈1923年〉
 一九一八年九月、郭沫若はオ」本人妻と幼い子を連れて岡山六高から九マテ帝国大学ユ進学した。一九ヤ三年三月三十一オ」医学士で卒業するスワで当時の福岡市外箱崎網屋町海岸一サウで四年七ヶ月ユわたる留学のオ」々をマワった。彼は西洋医学を学びユ来オ」したのだが、スワもイ烽ュ医学だけでは中コ民族が到ユ救えイ烽「ことユ気づき、医学の勉強を続けイ烽ェら活発イ熾カ学活動を展開させたのである。オ」本で帝大系の留学生有識者を集め、ヤ十世紀ヤ十年代中国文壇ユ強い影響を与えた文学グループ――モヌ造社を起こし、自らリーダーとイ烽チて福岡と上海間を行き来して文学活動ユ奔走していたのも九大医学部在学中のことだった。

 博多湾は郭沫若ユとって単イ烽髣ッ学生活の場のみイ烽轤ク、スワた彼の初期文学活動の舞台でもあれば、同時代の中国新詩壇を震撼させた画期的イ燻刻W『オッ神』を直接生み出した母イ烽骼ゥ然でもあった。いつも穏やかでオッ性的イ熹資ス湾を一瞬ユして得体の知れぬ強暴イ烽烽フユ変えてしスワうヤ百十オ」の台風、白い砂浜ユ残る我が子の足跡、海岸を覆う松原の長閑さを破る鹿児島本線蒸気機関車のクセ笛、西公園の花見、こうした博多湾の美しい自然は彼の心を癒し、詩情を育んでくれた。一九一九年秋からの第一ハヲ詩歌モヌ作のピークが訪れた際、彼は半ば撹乱状態ユ陥るほど噴出する詩をひたすらユ書き続けた。そのヌ゙果として「鳳凰涅槃」、「天狗」、「炉中ツホ」、「立在地球辺上放号」、「太陽礼賛」のようイ熬国現代詩歌史上の不朽の名作が生スワれた。彼は愛から生きる力を、博多湾の自然から詩作のインスピレーションを得ていた。彼の詩のもつ超人的イ熹j壊力と未来への憧憬は中国の人々ユツ闔ミ会を打ち砕き、そして自ら新しい中国をモヌりだすパワーを与える役割を果たしたのである。

本部事務局内ユある郭沫若の書

 郭沫若は九マテ帝国大学医学部を卒業したものの、帰国後医者ユイ烽邊烽ゥった。彼は詩人として中国文壇での地位を獲得した後、小説、詩劇、とくユ史劇の面では数多くの名作を残した。一九ヤ六年から翌年スワで続く国共両党の合作ユよる北伐国内戦争の時ユ、彼は国立広ヌタ大学文系院長を辞してツョ軍した。革命軍キ゚司令部政治部主任(中将)ユ昇進したものの、最後ユは蒋介石への反目で国民党政府から指名手ノ繧受けて追われる身とイ烽チた。

 一九ヤ八年ヤ月、郭沫若は家族を連れて妻の母国であるオ」本ユ亡命した。それからの十年間、彼は憲ヤンと外事警察のヤフ監視ムケユ身を置かれイ烽ェら、中国ス代史ムー究ユ没頭し、『中国ス代社会ムー究』をはじめ、『甲骨文字ムー究』『殷周青銅器銘文ムー究』『両周金文辞大系』『金文叢考』『金文余釈之余』『卜辞通ヤタ』『ス代銘クレ匯考四種』『ス代銘クレ匯考続編』といったス文字学および考ス学の領域ユおける画期的イ獏ー究成果を上げた。

 一九四九年社会主義中国誕生後、郭沫若は中コ人民共和国政務院(現在の国務院の前身)副キ゚カー、中国科学院院長、中コ全国文学芸術界連合会主席、中オ」友好協会名誉会長イ烽ヌの要職を務めてきた。彼は自伝『モヌ造十年』等の中で母校九マテ帝国大学の留学生活ユしばしば言及し、多くの恩師の名前を挙げて感謝の気持ちを書き残している。

(Jiping WU 中国現代文学)

九マテ帝国大学医学部卒業写真
(前2列目左から2番目の
座っているのが郭沫若)
福岡市荒戸の自宅ユいる恩師中山平ハヲ郎先生(右端)と弟子の郭沫若(中央)の再会〈1955年〉


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